ロシア・ウクライナ戦争の背後には一種の宗教戦争が隠されている、などというと失笑を買うだけであろう。私もそこまで主張する気はないが、この背景をなしている宗教的な構図が気なるのである。
この戦争が一方的に狼煙をあげたロシアのウクライナ侵略という蛮行によって開始されたことはまぎれもない事実である。プーチンの所業を、自由・民主主義・法の支配という普遍的価値観に対する攻撃だという西側の言い分に反論することは難しい。ゼレンスキー大統領も来日した先日の広島でのサミットにおいても、それは世界に向けてアピールされた。
だが、それはそれとして、少し現実を掘り下げて歴史的かつ文明的に見てみれば、構造はそれほど簡単ではない。そのことは、『ひらく』第 号の拙稿「ロシアの戦争と西欧近代」)でも述べたが、大事なことだと思うので、重複を承知で改めて述べておきたい。
ロシアの歴史的条件は、まずはその周辺地域への脅威にある。ロシアは、13-14世紀には中央アジアから進出したモンゴル・タタールに支配され、その後は、東にポーランド、スウェーデン、リトアニアなどのキリスト教大国が控え、南にはオスマン帝国というイスラムの大国が横たわるという脅威に晒されてきた。その脅威に抗すべくロシアの民族的精神の軸となったのがロシア正教会であった。
4世紀末のローマ帝国の東西分裂後、キリスト教は西ローマのローマ・カトリックと東のビザンツ帝国の東方正教会に分裂する。その後、ロシア正教会は、10世紀にウラジーミル 世がロシアにキリスト教を導入したのち、東方正教会の正統後継者に唱えるようになるが、その特徴は、きわめて民族主義的でメシアニズム的性格にあった。16 世紀のイワン雷帝はロシア正教会の支えのもとで強力なロシア・ナショナリズムを打ち出したし、 18世紀のエカテリーナ2世もコンスタンチノープルをイスラムのオスマン・トルコから奪取してギリシャ正教を立て直すことを目指した。ロシアでは、「ロシア正教会」「皇帝」「国民」が一体となったロシアの救済という土着的なメシアニズムが生まれたのである。
――(「ひらく⑨」巻頭言より抜粋)
 
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【寄稿者】
佐伯啓思(さえき・けいし)
1949年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業。滋賀大学、京都大学大学院教授などを歴任。現在京都大学名誉教授、京都大学こころの未来研究センター特任教授。著書に『隠された思考』(サントリー学芸賞)『「アメリカニズム」の終焉』(東畑記念賞)『現代日本のリベラリズム』(読売論壇賞)『倫理としてのナショナリズム』『日本の愛国心』『大転換』『現代文明論講義』『反・幸福論』『経済学の犯罪』『西田幾多郎』『さらば、民主主義』『経済成長主義への訣別』『「脱」戦後のすすめ』など。近著に『「保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ)『死と生』(新潮新書)『異論のススメ 正論のススメ』(A&F出版)など。