回想……1970年代

 少し個人的な回想から始めたい。私が大学院生として経済学を研究していたのは1970年代だったが、この時代、経済学はたいへんに論争的でかつエキサイティングであった。日本では、まだ「マル経」対「近経」、つまり、マルクス主義とアメリカ経済学(近代経済学)がしのぎを削っており、ここにも冷戦という時代状況が反映されていた。私自身も、資本主義の崩壊というマルクスの予言に導かれて経済学をやろうと思っていた。果たして資本主義は、根本的な矛盾をはらんでいるのか、それともそれはうまく機能するのか、ということである。
 世界的な潮流としては、市場中心主義にケインズ主義を補正的に継ぎ足したアメリカの「新古典派経済学」(もしくは「新古典派総合」)が主流ではあったが、それをそのまま信用する者は多くはなかった。なにせベトナム戦争の最終局面である。何であれ、「アメリカ」は疑ってかかれ、というわけである。
 そこで、われわれ大学院生仲間は、その勉強不足を、分不相応に旺盛な批判精神で克服(?)しつつ、議論に明け暮れていた。主要な関心はまず「体制論」である。社会主義と資本主義のどちらがよいか、というテーマである。このテーマはまた、資本主義は成功するのか、さらに、市場経済をどう理解するか、という問題へ移行する。そこで一方に、市場への全面的な信頼を隠そうとしないアメリカの新古典派経済学が、当時、猛烈な勢いで高度な数学を導入し、意気軒高であった。おかげでわれわれの勉強時間のかなりが数学の習得に充てられるという始末である。
 ところが、この過度な数学化も含めて、アメリカ新古典派経済学に対する批判や異議申し立ても次々と提示されていた。ケインズの弟子たちの系譜をひくイギリスのケンブリッジ学派、マルクス主義の影響を受けたアメリカの若者たちによるラディカル・エコノミックス、またヴェブレンやコモンズというひと世代昔の独特の経済学者の系譜を引き継いだ経済学、それに新産業国家論を書いたガルブレイスも独自の立場から新古典派を批判していた。
 われわれ院生は、それらの間を右へ左へと往来し、時代の風に振り回されながらも、議論に明け暮れ、自分の足場をどこに設定するか模索する日々だったのである。

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【寄稿者】
佐伯啓思(さえき・けいし)
1949年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業。滋賀大学、京都大学大学院教授などを歴任。現在京都大学名誉教授、京都大学こころの未来研究センター特任教授。著書に『隠された思考』(サントリー学芸賞)『「アメリカニズム」の終焉』(東畑記念賞)『現代日本のリベラリズム』(読売論壇賞)『倫理としてのナショナリズム』『日本の愛国心』『大転換』『現代文明論講義』『反・幸福論』『経済学の犯罪』『西田幾多郎』『さらば、民主主義』『経済成長主義への訣別』『「脱」戦後のすすめ』など。近著に『「保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ)『死と生』(新潮新書)『異論のススメ 正論のススメ』(A&F出版)など。