鎌倉時代後期の絵巻『豊明絵草子』。作中の詞書には『とはずがたり』によく似た箇所がいくつかあり、詞書・作画の制作者に二条をあてる説がある。本稿は次田香澄氏が唱える別人説を支持する。ただ念のため、次に、最近似部分を『とはずがたり』より引く。巻一・第一二段で、新嘗祭明けの宴会として催される、豊明節会の夜の記述である。〈豊の明の夜な夜なは、淵酔舞楽に袖をつらねて、あまた年、臨時調楽のをりをりは、小忌の衣にたちなれて、御手洗川に影をうつす〉。一方、対照箇所である『豊明絵草子』の記述は次のとおり(第一段冒頭部分)。〈豊明のよな〵〳は 淵酔舞楽に袖をつらねて あまたとし 臨時調楽のおり〵〳は おみのころもにたちなれて みたらし河にかけをうつす〉。
上図は巻六収録。僧形となった隠者のもとへ息子があらわれ、末子の若君が急病で亡くなったことを告げる。山中の庵で、ものさびしい晩秋の草花に囲まれながら、ふたりはしみじみと語り合う。

 
 慣らわぬ道中とはいえ、出立からひと月がたてば旅寝も身につき自信を得たのは、文章の調子が、歌枕を多用する凡筆から逃れだしたことからも判る。事情を諸々省筆し、〈なにとなく捨て果てにしすみか〉と唐突に書くことで、断絶の印象をふまえ、都からの離去の物語(巻四)を誌しだす作者の精神性はもとより靱い。宮廷生活への別れは、さまざまな思慕とともに、一抹のわびしさ、〈遣る方なき心地〉を呼び起こすに充分であった。が、作者の筆は鬱結の情にくすむことなく、むしろ犀利である。加えて注目されるのは、巻四の筆が夜を繋げるかたちをとり、あたかもThe Night Watch(夜を観察する人)とでもいうべき自画像を示しつつ物語の幕が開く様相であろう。書き出しの〈二月の二十日あまりの月とともに都を出で侍れば〉は月明かりの行路を辿る旅のはじまりを告げ、物語の行方を象徴する。続いて作者は、夕暮れどきの鏡の宿(中仙道の宿駅)に在って〈遊女ども契り求めてありくさま〉を点描し、継ぐ美濃赤坂の宿の描写では、若き遊女姉妹としみじみ対話する場面(これも「夜」の情景がふさわしい)を設定する(第一段)。宮廷生活のなかで作者が見続けてきたものは、いわば人間世界の「夜」であり、御所から訣別のちの旅はその延長なのだ。
 第二段に入ると熱田社に参籠する場面で、〈夕月夜はなやかにさし出でて、都の空も一つながめに思ひ出でられて〉と記され、闇を照らす月光が空間的な神秘をさまよう予感を読み手に伝える。作者はそこで婉麗なる夜桜の梢を眺め、海辺の抒情を織り込んで、〈春の色もやよひの空になるみ潟いま幾ほどか花もすぎむら〉とうたう。熱田社は当時、東門・南門の向こうは海浜(鳴海潟)だった。〈いま幾ほどか花もすぎむら〉は、過ぎと杉を掛け、「あと幾ほどだろうか。桜のさかりが過ぎ、杉群となるまでに」の意だが、季節を襲う「時」の非情は、詩品の類型のなかで、人の世の憂きさま、生のむなしさを再確認させる動機をつくりだす。作者は〈いまさらなる御面影も立ち添ふ心地するに〉と綴り、愛慕に情緒を投じてゆく。そこには可憐に通じる素心さえあらわれている。作者の「靱さ」は運命を宿世の同道者として認めるちからであるが、それは、彼女自身の天造の風懐と渾然一体となって表出されるところが、この物語の妙味であり、魅力のひとつといえよう。
 そして作者は〈~いま幾ほどか花もすぎむら〉のうたを短冊に書き、社の前に立つ杉の木肌に打ちつける。わがうたはなまくらの誦ではない、己の信実でありけじめである、といわんばかりに。この疳性ともいえる行為に、作者は生来の切実を込め、言霊の徳用に賭ける。その営みを前にして、たとえばわたしたちは保田與重郎のことば、〈傳統の歌や俳句は、怖ろしいばかりに、その形式の人間的追求といふ上に於て、覇衜的氣質を帶び易く、覇衜に近接する可能性をもつものである〉を想起することもできよう(「赤彥斷想」)。無論、覇道といっても、「夜」を綴る作者は、ここで勇壮のイロニーに囚われたわけではない。むしろイロニーの惰弱を超えた表現の質実を問う姿勢を示したというべきである。和歌と琵琶に通じる文雅の家に生まれた作者にすれば、文章表現のさい、路地裏まで様式美の追求は当然であろう。が、熱田社でのこの桜のうたは、王朝文芸の慰戯的技巧を超えた、あるいはそれを喰いやぶるほどの、表現者としての果敢を露わにしている。
 実際作者は、短冊を打ちつけるとともに、七日参籠の荒行へその身を駆り立てている。暗い影が閃くようなこの蓮葉な行動は、熱田の段にてすでに表わされた断言、〈神は受けぬ祈りなりけり〉と響きあうのだ。かつて熱田の神は、彼女の父の切なる祈願を聞き入れなかった。病父にあわれをかけなかった。その神に向かい、娘として〈神はなほあはれをかけよ御注連縄ひきたがへたる憂き身なりとも〉とうたうことで、彼女は神に敢然と迫っている。ぷりぷりと衝ッ突かる風情すらここにはある。骨法を成す自尊精神は、かつて治天を司る上皇や仏教の権威者も、第一級の貴族政治家も、愛欲の相において相対化していった作者の筆勢と斬り結ぶはずだ。
 尤もこうした不撓の心が宿ったことは、中世始動期とはいえ王朝の遺風が濃く残っていた宮廷の暮らしにあって、彼女を不幸にした。その奔放はついに後深草院から深くにくまれ、御所追放の憂き目に至る。代償として生み出されたのは一箇の回想文芸である。問われざるとも語る、語らねばならない、という志の果てに綴りきった『とはずがたり』だった。作者二条は同書巻五末、棄筆の段に至って、いくぶん慵げとなり、捨て鉢な侠気を見せる。己の文業に対し〈かやうのいたづらごと〉と素っ気なさを示し、〈のちの形見とまではおぼえ侍らぬ〉と厭わしげに裁じた。それは夜陰の風に戦ぐ抒情である。無論、こうした自儘の意力が全篇を貫いていたからこそ、物語は悲劇を正視し、生々流転の真実を告げる逸品に仕上がった。
 『とはずがたり』の世界は慄然としており、ゆえに美しい。美は概ね整合にある。が、整合した整合に美は興味を示さない。矛盾から整合に移行しつつ、その移行が不全になるかもしれない予感のなかに、美はあるというべきなのだ。『とはずがたり』は誌されるなかで、不全と十全の二律背反的なモメントをたえず奏でる。その音調は頽廃期の風流和楽を背景に、登場人物の生死と惑溺の日々を描く物語の基底に、かなしげに流れる。美しさとなやましさは、ついには沈痛の底にまで染み入り、悲哀に溶け込む。それほどまでに、作品は美観の諸々相に充ちている。美は描写対象のすがたかたちにあるわけではない。観察し自照し記録する作者の気魂こそ美事である。ゆえに『とはずがたり』は、あやしき崩壊感覚の心地良ささえ読み手に伝える。作品世界はそれだけ蠱惑的なのだ。

続きは本誌をご覧ください

【寄稿者】
澤村修治(さわむら・しゅうじ)
1960年東京生まれ。淑徳大学人文学部表現学科教授。千葉大学人文学部人文学科卒業後、中央公論社・中央公論新社などで37年にわたり編集者・編集長をつとめる。2017年から帝京大学文学部日本文化学科非常勤講師を兼任。2020年3月、中公を定年退社し、同年4月より現職。著書に『唐木順三』(ミネルヴァ書房)、『ベストセラー全史』近代篇・現代篇(筑摩選書)など。 近刊に『日本マンガ全史』(平凡社新書)。