平成29年早春だからもはや昔日というべきか。京都嵯峨野に向井去来の別墅(別荘)落柿舎を尋ねた〔photo4.1〕。

photo4.1

『唐木順三』(ミネルヴァ書房)のゲラ作業に取りかかる時分だったと思う。その5年前と2年前には『悲傷の追想』『敗戦日本と浪曼派の態度』と日本浪曼派関係の書物を上梓している。順三は嵯峨野を歩き疲れ、空地の竹藪に腰をおろしたとき、偶然、去来の墓を見つけた一件を印象ぶかく記しているし、落柿舎は保田の縁とともに浪曼派関連の文献でよく目にする。このさい改めてかれらの故地を尋ね、見聞しておこうと相成ったわけだ。
 出不精ゆえそもそも出かけるのが億劫である。地球上のどんな偉観異観に招じられても白々と感ずる自信(?)がある。いきいきした交感を得、神秘的なものに魂を導かれるとしたら、過去のテクストを読む途しかないと思う。もっとも頑夫になるのも窮屈だ。ということで、面倒くさがる心根をいなしいなして、出かける機会に従った。古人に縁があった地の訪問は、古人の跡を求めるのではなく、〈古人の求めたる所をもとめ〉る(芭蕉「許六離別詞」)行為だと考えつつ。
 というわけで落柿舎である〔photo4.2〕。

photo4.2

 侘といい寂といいまた風雅というが、その誠をあらわす「和」の維持とは、結局は細部に至る手入れであり、(俗事を含む)不断の努力であることが、この小舎をめぐる小観からじわり伝わってくる〔photo4.3〕。

photo4.3

 落柿舎はかつて松尾芭蕉が住んだ。もっともそこは、かれにとって、栖所というより一種の詩心であり、滞留の場というより、諸行無常・万物変転のなか、かろうじて仮の「常」をつくりだす志であったと思う。
 芭蕉『嵯峨日記』は、冒頭まもなく、自ら家を繕う短記へ、文章がさらり移るのがおもしろい。〈障子つゞくり、葎引〔むぐらひき〕かなぐり、舎中の片隅一間〔ひとま〕なる処、伏処〔ふしど〕ト定ム。〉──障子のやぶれを直し、あれはてた庭を草引きして多少整え、部屋の一隅を寝床に定めた。
 という。しばらく滞在するためであった。

*       *

 平成仕舞いの頃に訪れた落柿舎では、玄関脇の、土間をおおう壁に簑傘がかかっていた〔photo4.4〕。

photo4.4

 それが妙な象徴性を抱くたたずまいに見えたのは、時空をへだてて、芭蕉の心性が、一瞬、ひびいてきたからか。──もとより漂泊の生である。この小舎にしても、仮の宿であり、わずかな日々の在所となるしかない、といった案配の。
 なんどき終〔つい〕になってもよい。そう思いながら漂泊を続けてきた芭蕉は、「おくのほそ道」の旅を終えた(元禄二年)晩年近く、大津膳所、伊賀帰郷を経て近江の「幻住庵」にみつき半、身をとどめ(元禄三年)、翌元禄四年、再び帰郷したのち、こんどは嵯峨の落柿舎に入って、4月18日から5月4日まで日記を誌した。
 芭蕉の文章には「野ざらし紀行」「笈の小文」「おくのほそ道」と紀行文があり、俳文もいくつか残るが、日記はこの「嵯峨日記」だけ。起稿当初、芭蕉は文学的日記を意図したようだが、「嵯峨日記」はその日のことをその日に書く体裁にとどまる。ただ不思議な感興を呼ぶ文章である。
〈昨夜いねざりければ、心むつかしく、空のけしきもきのふに似ズ、朝より打曇り、雨折〳〵音信〔おとづる〕れバ、終日ねぶり臥〔ふし〕たり。〉(4月21日冒頭)──昨夜は眠れなかったので気分がすぐれない。空の様子もきのうと打って変わって朝から曇り、時折雨も降るありさまで、終日寝てすごした。
〈人不来、終日得閑。〉(4月27日全文)──人来たらず、終日閑〔しず〕かであった。
 これらモノローグからは、隠者の孤生がしみじみと伝わってくる。
 と思いきや、客人をまじえた、茶目なかんじの記述にも出会う。
〈今宵ハ羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋一はりに上下五人挙〔こぞ〕リ臥たれバ、夜もいねがたうて夜半過よりをの〳〵起出〔おきいで〕て、昼の菓子・盃など取出て暁ちかきまではなし明ス。〉(4月20日後段)──今宵は羽紅・凡兆の夫婦を泊めたので、ひと張りの蚊屋(蚊帳)に5人が寝ることになった。やはり寝苦しく、夜半にはみんな起き出して、昼のお菓子や酒などを取りだし、明け方まで話しあった。
 なにを話したのだろう。仲間のうわさか。俳句をたしなむ面々なので、やはり句談だろうか。
 日記はまた、老境の芭蕉が清澄の人ではなかったことも告げている。ひとつ挙げる。
〈夢に杜国が事をいひ出〔いだ〕して、涕泣して覚ム。〉(4月28日冒頭)──死んだ杜国のことを夢で言いだし、泣きながら目が覚めた。
 愛すべき弟子杜国は、不幸な事件で隠棲することになり、若くして死んだ。悲哀はときに激越な嘆きとなって、夢をやぶる。そのありさまを記す芭蕉は、安らかな境地にはいない。心の空虚をどう埋めあわせるか、苦しんでいる。
 不易流行を着想し、「軽み」の工夫を求めた晩年の芭蕉。円熟の老成期を迎えたと思いきや、そうではないらしい。「嵯峨日記」はたしかに老境を描く。しかし達観なんぞ易々には出さない。
 その意味でかれは仙境にいない。かれは俗界におり俗人にとどまっている。だから悲しみにもくれる。その正直は、読んでいてゆかしく、またどうしようもなく、あわれである。
 前年稿を練った「幻住庵記」には前後を散佚した先駆形があり、そこに芭蕉の筆で〈妖悟〉(えうご。妖しく悟る)ということばが見える。残生を口にしつつ「軽み」の芸域を開拓しはじめた芭蕉が、神経質な面貌をして、人間のダークサイドへの不安を吐露していたかに読めるが、いかがであろうか。悟達から遠いという意味で、〈涕泣して覚ム〉に通じるところはないか。

*       *

 落柿舎にはいくつか句碑がある。当方の見落としもあるやもしれぬが、13碑指折ることができた。
芭蕉自身やその門人去来の碑はもとより、保田與重郎(落柿舎十三世庵主)、工藤芝蘭子(十一世庵主)、平澤興(京大総長)と日本浪曼派関係の人士の碑も点在するのは、落柿舎近年の経緯を語っていよう。
 なかでも当方が感じ入ったのは虚子の句。破調の自在がじつに楽しい。
〈凡〔およ〕そ天下に去来程の小さき墓に詣〔まい〕りけり〉〔photo4.5〕

photo4.5

 句がとらえた去来の墓は落柿舎裏にひっそり佇む。唐木が偶然出会った当の墓石であり、立烏帽子のかたち。40センチの自然石に「去来」とのみ刻まれてある。

◇「ゆかりの径」はこれで終筆します。どれだけ読者がいたのか心許ないかぎりですが、ごくわずかの方々に、本連載を通じて出会えたのかもしれない、と思うとき、筆者の居心地が悪いはずはありません。
 

【寄稿者】
澤村修治(さわむら・しゅうじ)
1960年東京生まれ。淑徳大学人文学部表現学科教授。千葉大学卒業後、中央公論社ほかで37年にわたり編集者・編集長をつとめたのち、現職。著書に『唐木順三』(ミネルヴァ書房)、『ベストセラー全史』近代篇・現代篇(筑摩選書)、『日本マンガ全史』(平凡社新書)など。