相模湾沿いの土地のうちとりわけ海洋性気候の度合が高い葉山は、明治大正期から避暑避寒の好地だった。たしかに気候はよろしい。夏の夕方は蜩がなく。川べりの家ではカニがあがってきて、置き靴のなかに潜む。狸、狐、ハクビシン、アライグマ、台湾リス……陸の生物相は豊かで、そのうえ海がある。
 西向きの浜ゆえに、葉山は夕景がとりわけすばらしい〔photo1〕。かつてブルーノ・タウトが見た、〈実に多彩な色〉が刻々と変化し、〈この世のものならぬ光の饗宴〉に至る(「日本雑記」篠田英雄訳)。それが確かに、いまでも年に何度か、到来する。しかも現代では、もう一つ、印象的な海辺の光景が加わる。湾に並ぶヨットの帆影だ〔photo2〕。

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 さて、わが14年にわたる訪問先の近くに(徒歩で2~3分)、俳人西東三鬼が晩年暮らした旧居跡がある。8年勤めた大阪女子医科大学附属香里病院を辞職、寝屋川の「崖下の家」を去って、三鬼が葉山町に居を移したのは昭和31年8月。角川書店『俳句』編集長就任のためであった。
 角川源義は当時をこう回想している。
〈数ヶ月考へたあげく、私は雑誌「俳句」の編輯をまかせることにした。彼は大阪でかなりのノートを作り、その抱負を語つた。しかし、決して有能な編輯者ではなかつた。彼の魅力は、その人間性にあつた。あきれはてるほどの女遍歴で、これには緃【つ】いてゆけない。俳壇でむつかしい問題が生じると、三鬼が生きてゐたらなあと誰しもが思ふ。三鬼は巧みな近代説話の語り手だつたが、今では三鬼が、自ら書いた近代説話の主人公となつてゐる。〉(『俳句研究』昭和46年4月号「西東三鬼の横顔」)
 俳誌『鶴』の石川桂郎は戦後まもない頃、大阪へふらりと出かけ、三鬼の居「崖下の家」に5日ほど居候をした。このとき歯科室で三鬼の仕事ぶりも見たそうな。患者を診るのはひとり1~3分で、ハイ次といった感じ。机の上には望遠鏡と俳誌と句帖のみ。三鬼は誰かに電話をかける。〈あと十分で風呂が沸くそうです。どう、一緒に入りませんか。いや、その点はご心配なく、その風呂場は内から錠がかかりますよ〉。相手は女医か看護婦か。これで歯科部長が務まったのだから、ある意味のんびりした時代だったのだろう。
 角川のいう〈決して有能な編輯者ではなかつた〉は、三鬼年譜に、「昭和31年10月、角川書店入社。昭和32年7月、『俳句』編輯を辞し角川書店退社」とあることからも判る。〈女遍歴〉のほうは上記暴露話でも、あるいは自伝『神戸』でも知れるし、加えて、〈「俳句」編集長の座を降りた数ヶ月で、関西からは愛人が押しかけて来るし、子息直樹君は上級校へ進学する、大森の長男太郎君は喀血するで、西東家のピンチはここに極まった〉との、『寒雷』『杉』同人・吉田北舟子による回想を挙げてもよい(「人間・西東三鬼」)。
 では、〈彼の魅力は、その人間性にあつた〉のほうはどうか。
 三鬼は好き嫌いが激しく、癇癪の爆発も多々あった。「三匹の鬼」でも足らぬ雷神である。奇妙な風来坊であり、貧乏と火宅はいつも彼につきまとった。が、彼は一方で無邪気な世話好きにして、開放的なオッチョコチョイ。如何なる逆境にあっても屈託なきキャラクターであり、その裸の人間性は、気難しい俳人たちにさえ素直に受け入れられた。
 ゆえに彼のもとには人が集まった。もちろんその句才のもとにも。
 三鬼は自然と俳壇ボスのような存在となってゆく。誰彼の出版記念会のとき、乾杯の音頭取り役は決まって三鬼に振られる。で、「乾杯屋三鬼」とひやかされることもあったそうな。〈俳壇でむつかしい問題が生じると、三鬼が生きてゐたらなあと誰しもが思ふ〉という角川の感慨は、そんな逸話からも何となく伝わってくる。
 葉山の家は三鬼終【つい】の棲家【すみか】となった。無類の犬好きで、愛嬌ものの飼い犬と連れ立ち海岸への散歩を、彼は欠かさなかった〔photo3〕。

photo3 葉山の浜辺で愛犬とともに(昭和37年。『俳句研究』昭和46年4月号より)

 さて晩年の三鬼が務めた役割のうち最も印象深いものの一つに、毎月1回行っていた少年院入所者への俳句指導がある。施設は横須賀線終点の久里浜にあり、〈院長の話では、ここにゐる少年達は皆ベテランぞろひ〉との由(「葉山雑記」より。以下も)。三鬼の役名は篤志面接委員であった。
 最初の日、講堂で院生300人の前で紹介されたときの、三鬼のことばが残っている。
〈私はむせ返るやうな体臭の焔に包まれた。それは名状し難い一種の臭気で、私がかつて、終戦直後の浮浪者を収容した病院で嗅ぎ馴れた臭気と同じ種類のものであつた。それは汚れてゐて、暗く、暑くるしく、どんな楽天家の胸中にも、鉛のやうなかたまりを作る臭気である。〉
 さすがの〈楽天家〉三鬼もこれには恐れ入るばかり。当初の心情を、彼は正直にこう告白している。
〈私はこの獰猛な面魂の若者達が、俳句などに興味を持つとは思へず、私の努力と時間は、全く無駄になるだらうと覚悟した。誇張していへば、アフリカ奥地に布教に入つた人の心境であつた。〉
 第1回のとき、三鬼が少年達に例句として示したのは、細見綾子の〈つばめつばめ泥の好きなるつばめかな〉。これで一同ワッと笑い打ち解けた。
 三鬼は毎月2つの題を少年達に出す。俳句に親しんでもらいたいと、容易な題ばかりにした。秀句・佳句なんぞは求めない。そんなことは末の末だ。自分を表現するものがあると知ってくれるだけでいい。そう念じながらこの篤志面接委員は、欠かさず、海沿いにあるコンクリートの高塀にかこまれた建物へ通うのだった。
 三鬼と少年達の関係はどうなったか。1年半後の様子を三鬼自身の筆から引く。
〈私は低く頭を垂れて、私の人間不信を恥ぢ入つてゐる。彼等は何かの間違ひではないかと思ふ程、今では俳句に熱中してしまつた。〉
 院生には何らの強制もなく義務もない。代償もまたなく、すなわち全く自発的である。そうして作られた俳句群には、ある特徴があることに三鬼は気づいた。
〈私は、初めの頃、彼等は盗むといふ習慣に従つて、新聞、雑誌から俳句を盗用するのではないかと考へてゐた。一般の投句者がよくやるやうに。そしてこれは全く予想に反した。彼等は他人の俳句を一句も盗まない。私は恥ぢた。〉
 俳句雑誌の指導者として、また選者としてふるまってきた三鬼である。投句者が平気で〈盗む〉行為をしているのは知り抜いている。わずか17文字の文学だ。雲海のごとく既作はあるのだから、〈盗む〉は止められない。うんざりもしているし、諦めてもいる。しかし久里浜の院生はやらないのだ。そんな彼らとともに過ごすひとときを、三鬼は〈清浄無垢な時間〉とさえいっている。そこには素直と率直しかない。技巧なんぞはどうでもいい。これぞ俳句の精神ではないか。
 作者は院生の3分の1に達し、毎回500余句が仕上がる。
「青梅」という題では、〈青梅を食べて腹痛幼き日〉のように、句の半分が食物としての青梅であった。不気味なのは「毛虫」が全句の4分の1にあらわれたことだ。
「蛙」という題で〈初蛙あまり鳴くので踏んづける〉があり、「蠅」では〈一発で叩き殺した大きな蠅〉がある。すさまじき娑婆観がのぞかれる。また、題「あかぎれ」の作句中、〈久里浜のあかぎれ一手にひきうけた〉に対して三鬼は、〈この句は、やくざ仲間の兄貴分のセリフであつて、それが苦しい刑生活の中でも、自然に出たものである〉とコメントしている。
 少年達の活気を最も呈したのは「餅」という題。食つても食つても腹が減るのだから、この文字だけで関心が引かれる。〈黒板にこの題を書いた途端に「ワーッ」といふ喚声が上がつた〉そうな。
 そして、院生の境遇が垣間見える発見があった。
〈若い身空で、ヒン曲つた生活を続けた若者達の俳句に共通な点は「父親」が全然現れないことだ。恐らく幼い時から、悪しき父を呪いつづけたからであらう。〉
 反して、「母」や「妹」は課題のたびに現れたという。院生が男子ばかりだというのはあるけれど。〈ベテランぞろひ〉の少年達にとって、父の思い出は遠くても、母や妹の思い出は手を伸ばせば触れるところにあった。〈ヒン曲つた〉人生のさなか、親しき女たちには体温が伝わっている。
 三鬼逝去は昭和37年4月1日午後0時55分。葉山の自宅で半月の危篤状態が続いたのちの長逝だった。その旧宅跡には白い碑がある。「終焉の地」と記され、絶句が掘られている。
〈春を病み松の根つ子も見あきたり 三鬼〉〔photo4〕

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【寄稿者】
澤村修治(さわむら・しゅうじ)
1960年東京生まれ。淑徳大学人文学部表現学科教授。千葉大学卒業後、中央公論社ほかで37年にわたり編集者・編集長をつとめたのち、現職。著書に『唐木順三』(ミネルヴァ書房)、『ベストセラー全史』近代篇・現代篇(筑摩選書)、『日本マンガ全史』(平凡社新書)など。