10月某日。時おり陽も差すが秋日和にはほど遠い。とはいえ雨天曇天はすでに慣れた。慣れるしかないのだ。天候にもコロナ時代の奇妙な世上にも──。
 箱根宮ノ下を訪れた。富士屋ホテルが新装したとの由、別館菊華荘は如何なる様子か多少気になったからである。旧著『天皇のリゾート』(2014、図書新聞)は戦前の御用邸を描いたものだが、宮ノ下御用邸も短くとりあげている。菊華荘はその継承施設だった。
 箱根は東京近在の温泉保養地として明治初期から皇族の訪問が多く、湯本から山道を登った宮ノ下への天皇行幸記録は、早く明治6年に見出せる。同年8月3日、明治天皇・皇后が〈宮ノ下温泉の行在所〉に滞在したと『東京日日新聞』が報じている。
 ふたりは翌4日、小田原へ向かい、午後には浜で引き網の様子を見学、漁師一同に〈御酒料〉として25円を下賜した。翌5日に宮ノ下へ戻ったとあり、小田原発は午前5時10分。暁(あかつき)時分なのは猛暑を避けたためであろう。塔ノ沢で小休止をして宮ノ下到着は同8時30分だった。連日の炎天ゆえ箱根路は砂埃が立ち、道路には打ち水がなされたという。
 もっとも、明治天皇自身は避寒避暑や保養のための御用邸、離宮の利用を控えており、小滞在にしてもこの宮ノ下行幸がただ1回だけだったと『明治天皇紀』にある。貴重な記録といえよう。
 宮ノ下に御用邸が設置されたのは22年後の明治28年8月。明治天皇第八皇女・富美宮(ふみのみや)内親王の避暑を主たる目的につくられ、木造平家建(一部が二階建)の純和風建築物だった(photo1:『天皇のリゾート』より)。昭和天皇も皇太子時代、静養のために使っている。

(photo1:『天皇のリゾート』より)

 関東大震災でかなりの被害を受け、形態をとどめた形で修理が行われたが規模は縮小となった。昭和8年に至り御用邸として廃止、翌年、高松宮家へ譲渡され高松宮別邸になる。戦後の昭和21年5月には富士屋ホテルへと譲渡、現在に至っている。長押(なげし)など随所に菊の紋が残されていることから菊華荘と称された。
 入構をことわったうえで、正面右手から建物をめぐる。北辺にあるphoto2を左手に眺めつつ、庭園へ出た。奥まった居所にあたる「御座所」を、その庭から写したのがphoto3。御座所は建物の北西部にあたる。増改築や震災復旧などの手が加えられていくなか、写真部分付近は比較的初期のすがたが残っているとされる。屋根の左はし、瓦の稜線がやわらかな曲線を描いているのがわかるだろうか。中央部分をわずかに膨らませた様式「むくり屋根」である。

photo2

photo3

 過度に装飾がないのは、自然(庭園)との調和をかんがえているからだ。そのうえで、さりげなく高い技術を付している。ゆかしい、とはこのことだろう。
 古ぼけた傘で案内されてみたい(photo4)と思った。スマホもITもない時代に戻って。

photo4

【寄稿者】
澤村修治(さわむら・しゅうじ)
1960年東京生まれ。淑徳大学人文学部表現学科教授。千葉大学人文学部人文学科卒業後、中央公論社・中央公論新社などで37年にわたり編集者・編集長をつとめる。2017年から帝京大学文学部日本文化学科非常勤講師を兼任。2020年3月、中公を定年退社し、同年4月より現職。著書に『唐木順三』(ミネルヴァ書房)、『ベストセラー全史』近代篇・現代篇(筑摩選書)など。 近刊に『日本マンガ全史』(平凡社新書)。