3月某日。コロナ不穏で旅も手控えの時期ながら行くことにした。修善寺の菊屋旅館。夏目漱石が泊まった古いつくりの回廊棟が残っている。
 漱石は明治43年8月6日、暗くなってから宿に着いた。〈強雨(ごうう)の声をきく〉と日記にある。
 翌7日、旅先の朝はこうであった。
 〈雨戸をあくれば渓声なり。上厠無便(じょうしむべん)。浴槽に下る。混雑。妙な工夫をしてひげをそる〉
 さすがは俳人。短記をつらね、かえって状況が目にうかぶ。快便はなく、風呂は混み、漱石はさぞや不快だったろう。その一件を〈妙な工夫をして〉の顔ぞりでまとめるあたり、読むほうは可笑しい。デビューしばらく余裕派と呼ばれた漱石らしい「ずらし方」だ。
 さて、漱石の泊まった部屋が残っているというので、頼んで入らせてもらった。
 もっとも菊屋に現在、残っているのは、初日に1泊した部屋のみ。翌日からの長期滞在の部屋──胃潰瘍の大吐血で死の淵をさまよった「修善寺の大患」の現場でもある──は当時の本館2階だが、現在の菊屋旅館にはもうない。近隣の「虹の郷」に移され、「漱石庵」として公開されているそうな。
 遠地らしく無精者には足が遠い。で、軒つづきにある現存のほうを尋ねたというわけ。
 奥まった一室で、入ると短い段々がある(photo1)。その上は正面に廊下が続き左にふた間。他の部屋とつくりはそう違(たが)わない。ただなんとなく「空気」が違う。

photo1

 当時の脇息がすみっこに残っており、カメラに収めた(photo2)。漱石はここで頬杖をついていたのか、どうか。想像(妄想?)してみると愉しい。

photo2

 さて、修善寺で大病の身となった漱石は、こう記してもいる(「思い出す事など」)。
 〈臆病者の特権として、余はかねてより妖怪に逢う特権があると思っていた〉
 山のなかの宿にいるせいもあって、以前から抱いていたスピリチュアリズムへの興味がよみがえり、こうした感慨に結びついたのか。ただ近代人漱石は〈信力〉を得てしまった。不思議な出来事は彼の門をたたかない。たとえ生死のあわいにいるときであったとしても。
 とはいえ、自然(ネイチャー)の不思議には漱石もしばしば出会った。〈山の底〉と呼んだ、ここ修善寺温泉でも。
 〈今の部屋は前にも山が見え、寝ていると頭も足も山なり。好い部屋なからん〉(「修善寺日記」)
 この記載、本館の部屋で見た景色である。が、別館からも同じ山のすがたが見えると宿の者はいう。photo3がそれだが、山というより森であった。

photo3

 わたしたちが訪れた当日、風がさかんで木々がゆれていた。漱石の描写に重ねるとどうか。頭も足もスイングされそうな風の森である。
 ささやかな漱石体験。されど印象が深くないはずはない。それは『ひらく』3号の編集後記に繋がってゆくのだった。

【寄稿者】
澤村修治(さわむら・しゅうじ)
1960年東京生まれ。淑徳大学人文学部表現学科教授。千葉大学人文学部人文学科卒業後、中央公論社・中央公論新社などで37年にわたり編集者・編集長をつとめる。2017年から帝京大学文学部日本文化学科非常勤講師を兼任。2020年3月、中公を定年退社し、同年4月より現職。著書に『唐木順三』(ミネルヴァ書房)、『ベストセラー全史』近代篇・現代篇(筑摩選書)など。 近刊に『日本マンガ全史』(平凡社新書)。