お利口さんの図式的思考

松岡 もともと先崎さん、何からですか、丸山とかその辺から?
先崎 そうですね、一番影響を受けて最初に読み始めたのが丸山眞男と江藤淳でした。
松岡 江藤淳はあなたが書くものに必ず出てきますね。
先崎 ええ。江藤からの影響は大きいですから。ただ、じゃあ卒業論文は何かと言われると、本居宣長で書いてるんです。それは小林秀雄を読んだからというような、いわゆる文芸肌ではなくて、法学部の丸山眞男の弟子とか孫弟子筋に当たる人のとこに出入りさせてもらって日本政治思想史の文献として宣長を読むような、けっこう基礎的で地味な作業をやっていた。一方で、文芸評論とか物書きの仕事にずっと憧れてて文学部の門を叩いた、そんな感じでしょうか。
松岡 本は飽きないですか?
先崎 あまりにも専門というか、タコ壺型の学問はもちろん飽きる。だから手広くやれたらいいな、というか。
松岡 飽きないかと訊いたのは、飽きちゃまずいんだけど、日本の読者とか論壇とか思想界とか文化に対して、あるいは世界に対して、今、丸山や吉本隆明を語っていくやり口が退屈なんです、僕には。先崎さんが書いたものでいえば、たとえばナショナリズムでゲーレン、アーレントの奥にヴァレリーを出す。ああいうものがもっとあっていいのに、こんなんじゃ届かないぜ、と思う本ばかりで、もっと深くえぐるか、別の視点を入れた、もっとダイナミックなものにどうしてならないのかがまるでわからない。つまり僕は最近の論壇の作法がわからない。作法を壊しているようにも見えない。
先崎 僕はどっちかというと学界や論壇の作法はネガティブな意味でよく知ってます。大学院に入ったとき非常に違和感があって、どうしても江藤などを解毒のように読まなきゃいられなかった。おっしゃる通りのお作法みたいのがあるせいです。それが僕にはものすごく窮屈で、高校時代くらいから何か表現したいと思ってきたその思いは一切無視して、なんで最初からある決められた問題意識があって、なぜ入った大学のある研究室のやり方に、みんな沿って平気で論文を書いているのかが全然わからなかった。
松岡 平気なのは、自分で読んでない証拠です。頼山陽や佐藤信淵を独りで読むとかね、やってみるといい。陽明学でも本当は誰の力も、まあ借りてもいいんだけども、やっぱり独りで心読すべきです。で、わからないところがいっぱいあるわけで、そこでいろいろ借りるのはいいんです。現代的なロジカルな解明をしてくれてる人なんかをね。それが、ヨーロッパに比べてどこからだろう、戦後の講座主義からかな、いつのまにかなくなってしまった。
先崎 僕は、高校一年の頃に、自宅にあった思想雑誌『伝統と現代』とかを読んでいて、橋川文三や村上一郎、さらに松本健一さんとか渡辺京二さんあたりを知っていた。なんかこれはおもしろい分野だな、て思いがあって……。
松岡 そのあたりからですか。
先崎 そうです。あのあたりを読んで、半分もわかってなかったですけど、よくわからないままに北一輝を読んでみたりとか、『国家改造法案大綱』とかの文体にたぶん魅了されていたように思うんです。
松岡 わからないのは大事ですよ。僕の『千夜千冊』はそれしかしてない。わからないところを、わからないままでいいとは言わないけれども、爪を引っかけてもこっちの爪が剥がれたところを書くべきです。そのわからなかった痕跡みたいなところを言うべきなのですが、つるっとしちゃうんだよね。どの時点からか。みんな、お利口さんが書いたものになっちゃう。
先崎 まったくおっしゃるとおりです。僕はそれに一貫して抗うことにしか、もし書く意味があって、評価してもらえる部分があるとしたら、そこしかないと思ってて。
松岡 橋川なんかおもしろかった。爪の引っかけ甲斐がある。折角なら橋川、村上一郎、全部やらないと。そうなってくると松本健一さんも。
先崎 あの辺の人たちのものはよく読んだものです。あとは大学入ってから、磯田光一や桶谷秀明先生の作品を読んだり。
松岡 それで三島についても先崎さんは書いてて、大塩平八郎に行ったり、橋川に行くけども、そうですか、磯田光一も。村上一郎は僕らも高校時代に読みましたが、わからないところもあったな。最後に村上は腹切っちゃうんだから。
先崎 村上さんが吉本隆明、桶谷秀昭さんとかと『試行』という同人誌を出されていて、そういうのがうちに2、3冊あったりする家庭環境だったんで、よくわからないながらもそんなのも読んでまして……。
松岡 お父さんが?
先崎 そうですね。父親が馬場あき子門下の歌人で、賞なんかもらってましたけど、だからうちには宮本常一の全集があったりとか、けっこうなんだかんだあって。
松岡 それはすばらしい。そこを一度、今すぐじゃなくても、いつか書くといいですよ。先崎さんの思想形成のいわば青の時代。橋川も村上も、丸山も吉本も江藤も、みんなそうなんですが、今の時代に合う話なんて、何の役にも立たない。そこでしょうね。そこにあるメインテキストの分析を、誰もまだやってない。
先崎 大学に入ったときの雰囲気としては、僕が読んでたものはひと世代前の感覚があって、そのあとの80年代以降の人たちがヒーローになっていたわけです。柄谷行人さんとかから、みんな読んで入っていく。ですから、『近代日本文学の起源』とか、ああいうのを国文系の人は読むし、そうじゃなければ西洋思想を読むんですけど、結局、僕の感覚だと、あれは江藤さんの『リアリズムの源流』の骨格をほぼそのまま踏襲してニーチェの系譜学を絡めているんだなとか、加藤典洋さんも、少し悪口めいちゃうけど、結局は吉本隆明さんの基本的な着想の域を出ていない。そうすると、何でそう考えようとしたのか、思想の動機というのが最初にある吉本や江藤に比べて、やっぱりお利口さんで、図式でものを捉え始めている。描線に力がないんですよ、絵にたとえて言うと。僕の場合は一貫して戻るというか、江藤さんや吉本さんのほうでやってる感覚はありました。
松岡 それってマーク・ボランとかジミ・ヘンドリックスを聴かないで、今のロック、いいですねと言ってるのがつまらないのと同じで、そこをやる以外ないと思います。まがりなりにも論壇が機能してた時代ですからね。このあいだ朝日の記者が論壇時評の次の書き手を誰にしましょうかと相談に来た。この人でしょうか、あの人でしょうかと。僕はすぐ断ったんだけれど、話を聞いてて、あ、これはかなりひどい状況だなと思いました。誰に頼めばいいか記者もわからないし、打診された連中も僕を含めて論壇時評という場にもはや魅力を感じてないから全員に断られてたわけです。その点、考えてみると西部邁さんが『表現者』なんかでやってらしたことは本当に珍しい。西部さんとは早くからですか?
先崎 いや、早くはないです、むしろ遅いと思います。二十歳ぐらいのときから西部先生の本を読んでたんですけれども、自分が何もしてないのにファンで行くということにためらいがあって、だから何か自分の仕事を1冊でも本にしてから、ど真ん中にいきなり切りこもうと思ってたので、お会いしたのは晩年のほうなんです。
松岡 デヴィッド・ボウイがいいなと思ったら、別にまだ弾けなくたってボウイのところへ会いに行けばいいと思うけど、でもまあ西部さんは、そうもいかないか。
 
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【寄稿者】
松岡正剛(まつおか・せいごう)
1944年京都市生まれ。編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。情報文化と情報技術をつなぐ研究開発に多数かかわるとともに、編集的世界観にもとづく日本文化研究に従事。おもな著書は『知の編集工学』『フラジャイル』『17歳のための世界と日本の見方』『連塾方法日本』『国家と「私」の行方』『にほんとニッポン』ほか多数。2000年に開始したブックナビゲーションサイト「千夜千冊」は2019年3月現在1700夜を突破(https://1000ya.isis.ne.jp)。
先崎彰容(せんざき・あきなか)
1975(昭和50)年東京都生まれ。東京大学文学部倫理学科卒。東北大学大学院博士課程を修了、フランス社会科学高等研究院に留学。2019年6月現在、日本大学危機管理学部教授。専門は日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』『違和感の正体』『未完の西郷隆盛』『維新と敗戦』など。