「諦念」と「愛惜」

 日本の文化の根底に、何か「無」へ向かう志向のようなものがあり、その志向がしばしば「無常」という言葉で表現されてきたといっても、決して的外れではないだろう。存在が存在として確固としてある、という一見あきらかな事実よりも、存在のあり方の不確かさ、もろさ、壊れやすさ、といった事柄に思いを寄せる、しかもそのことを何かに託して表現するという性向が強くみられる、ということである。
 ドナルド・キーンは『日本人の美意識』のなかで、日本の美意識の特徴として次の四つをあげている。「暗示、または余情」、「いびつさ、ないし不規則性」、「簡素」、「ほろび易さ」である。もちろん、日本の美意識などというものをある言葉で特徴づけようと思えば、必ず反論や反証があげられるし、この場合にも、対極にある「誇張」、「豊饒」、「規則性」などもいくらでも見ることができよう。日光東照宮のけばけばしさや秀吉が作らせた金で覆われた茶室などというものもあるし、大仰な動きを派手に見せる歌舞伎もある。
 にもかかわらず、日本文化や日本人の美意識が「存在の確固たる在り方をできるだけ正確かつ論理的に記述する」というよりは、「存在のはかなさや滅びやすさを暗示的に表象する」方向に強い特性をもったことは否定できまい。そして、この性向と、日本人の考える現実についての感覚、さらには死生観や自然観は不可分ではなかろう。
「存在するものは確たるものとして存在する」のではない、その逆に、「この世の存在はすべて生まれては消えゆくという生々流転のさなかにある」という感覚に対して日本人は「無常」という言葉をあてた。万物は「無常」のなかにある、とみた。これはいわば普遍的な法則であるがゆえに、すべてはこの法則に服するほかない。それを人間の意志や力で作り変えることはできない。
 そこで人間が、この生々流転の法則に抗うことの不可能を知ったとき、ある種の「諦念」と「愛惜」の念が生まれる。この法則を前にすれば、人は自己の卑小をしみじみと自覚し、それが「失われゆくもの、滅びゆくもの、消えゆくもの」に対する共感を生み、また「生あるものは必ず滅びる」という冷厳な事実に対する随順をもたらす。
 この「諦念」や「愛惜」を前提にして「世はさだめなきこそ、いみじけれ」という『徒然草』の一文が端的に示しているように、「世のさだめなさ」をそのものとして受け入れて始めて、「さだめなさ」を「いみじ」と思える。「いみじ」とは、何かとてつもなくすばらしい、というのでもなく、ただただ面白というのでもなく、どことなく趣き深いというのである。
 この幾分控え目な、しかし繊細な感受性においてこそ、「定めなさ」を、何かこの世界の本質を垣間見せるような情趣として受け止めることができるのである。そこに日本人の美意識の、少なくともひとつのあり方が浮かびあがってくる。ただその背後には、あくまで「諦念」と「愛惜」があった。かくてキーンがいうように、日本人にとり、滅びは美にとって欠くべからざる要素であり、その表現は暗示的で象徴的になり、不規則性に意味を求めることとなった。それは、確固たる論理のもつ規則性に永遠の姿を求めて、その上に科学的な論理を生みだし、大理石で建造物をうちたてた西洋文化の志向とはかなり異なったものであった。

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【寄稿者】
佐伯啓思(さえき・けいし)
1949年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業。滋賀大学、京都大学大学院教授などを歴任。現在京都大学名誉教授、京都大学こころの未来研究センター特任教授。著書に『隠された思考』(サントリー学芸賞)『「アメリカニズム」の終焉』(東畑記念賞)『現代日本のリベラリズム』(読売論壇賞)『倫理としてのナショナリズム』『日本の愛国心』『大転換』『現代文明論講義』『反・幸福論』『経済学の犯罪』『西田幾多郎』『さらば、民主主義』『経済成長主義への訣別』『「脱」戦後のすすめ』など。近著に『「保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ)『死と生』(新潮新書)『異論のススメ 正論のススメ』(A&F出版)など。